ハワイアンカルチャー 
ここでは、まず簡単にハワイの文化を・・・
ホノルル空港に着くとまず映画のように、フラガールがアロハって、レイ
かけてくれてキスを、何てことはまず少ないでしょう、旅行会社がツア―の
客を迎えるのにサービスでしてることが多い、しかしせっかくかけてくれたレイ
を簡単に捨てるのは辞めて貰いたい。レイは霊?レイは神聖なる物で、ハワイ
の人たちは自然の動物や植物に宿ってるパワーを身に付けることによって病気
や災難から身を守ってくれるハワイ古来のお守りのような物です。
レイはそれぞ
れの花や貝によって意味があり先祖代々受け継がれてる物もあります。
確かに、レイは2,3日で色が変わってしおれてしまいます。しおれてしまう前に
自分の好きな所、大事な所にささげるのも良いでしょう。私はワイキキのサーフィ
ンの神様、デュ―クの像に掛けます。
 デュークカハナモク
WAIKIKI BEACHに行くと一番目に付くデューク像、この像をバックに記念写真をとる人は多い、この人も偉大な伝説の人であることを知ってほしい。
1890年、7人兄弟の長男としてWAIKIKIに生まれ。ハワイアンの習慣に習い洗礼式も海で受けたデュークにとって、海は小さなころより慣れ親しんだ遊び場であり、生活の一部であった。10代の頃からビーチボーイとして、毎日仲間とサーフィンや水泳、サーフボード作りに興じていた。そんなデュークは1912年ストックホルムで開かれたオリンピックで水泳100Mフリースタイルの世界記録を更新し、金メダルを所得した。「カハナモク・キック」と呼ばれる独自の泳法で、デュークはこの大会を含む3回のオリンピックで計3個の金メダルと2個の銀メダルを獲得している。その後サーフィンの親善大使として世界各国を巡りサーフィンを始め、水泳やカヌーなどのデモンストレーションを行い各地で絶賛を浴びた。30本以上のハリウッド映画にも登場する事にもなる。オーストラリアに行く時も、サーフボードを持っていかず、現地のサーフクラブの営む材木屋へ出向きパイン材を削ってオーストラリアの海の状況に合ったサーフボードを作り、ビーチで逆立ちやタンデム(2人乗り)サーフィンなどを休む間もなくいろんな技を披露した。その後1965年(75歳)水泳とサーフィンにおける栄誉殿堂入りを果たし、その記念式典では、サンタモニカのシビックホールに参集した2000人もの有名サーファーたちが規律して出迎え、彼に敬意を表したという。その後もサーフィンの父、ヒューマン・フィッシュなどと呼ばれ、あらゆる賞を取り続けた。デュークはどれだけ有名になっても変わらずビーチボーイのデュークだった。表面は穏やかで、内面に深い力を秘めた海そのものだった。1968年にこの世を去ったが、ハワイはもとより世界中のサーファーが今なお尊敬してやまない。
  サーフィン発祥の地!? サーフィンについて少々・・・
1778年にキャプテンクックがハワイに訪れた時にはすでに、木の板を使って、波に乗って遊んでいたと伝えられている。しかし実際にはハワイがサーフィン発祥の地かどうかはさだかではない。ポリネシア圏では、ハワイに限らず、こうした波乗りが行われていたからである。しかし近代サーフィンについては、ハワイが生まれ故郷である事は間違いないだろう。
  サーフィンについては、ハワイはオキテ(ルール)が厳しい・・・ 
ハワイでのサーフィンは必ずルールを守る事!ルールを破ると、サーフボードを壊されたり、殴られたりしても仕方がない、私もトイレが血まみれになってるということを聞いた事がある、それだけサーフィンをこよなく愛している人種だからである。
絶対に前乗り、後乗りはしない、入る時は、声をかけ了解を得てからがベスト、WAIKIKIでは初心者も多いので気兼ねなく入れるが、一様ルールは守って欲しい
。あとは、ビーチでの喫煙、飲酒はもちろん厳禁、交通ルールも譲り合いの精神で、私もハレイワの帰り、サーフボードを積んだピックアップトラックとバトルになったこともありました。たぶんよそ者だろうが・・・
地元の人たちとも、仲良くするのも悪くない、アロハスピリッツで受け入れてくれる筈、しかし、なれなれしくしたり、お高く出ると、受け入れてくれない、日本人を嫌っているハワイアンも少なくはないから、様子を見てから・・・
自然の動物(ハワイアンモンクシール)たちも、人を気にせず砂浜でのんびり昼寝してたりしてるのを観てると、ハワイアンの自然に対する気持ちはしみじみ感じてくるので納得できる。
   HULA フラについて少々・・・               HULA LINK
フラダンス、よく間違えられて、思われいるココナッツのブラに、わらの腰みの、でビートに合わせて腰を激しく振って、踊るダンス、これはタヒチアンダンス出会ってフラではない。本当のフラは豊かな精神世界をもち肉体的にもハードなもの。
フラは踊りのベースに、すべて詩がある。その詩があってこその踊りである。からだの動きだけをダンスとして切り離す事の出来ない。一つ一つの言葉によって振りが決まり足を使った下半身全体でリズムを刻みながら、主に上半身で歌を表現いていく。それぞれ手の動きに意味があるのは歌われている事を表現する為。
あまり言葉をもたなかったハワイアンはこうして歴史などを代々語り継がれてきたのだと言う。
あと、一般的なフラは(アウアナ)、古代フラは(カヒコ)と別れている。これはカピオラニ公園、ワイキキ周辺で観られるのでチェックしてフラの歴史を思い浮かべながらじっくり本当のフラを味わって頂きたい。フラはもっと深いものがあるがここでは手短にしてますので、本などで調べてみるのも良いかもしれません。
  ALOHA Oe(アロハ・オエ)について・・・
甘い記憶が私に帰ってくる、過去の思い出が鮮やかに蘇る、親しいものよ、お前は私のもの、お前から真実の愛が去ることはない、アロハ・オエ・アロハ・オエ
カラカウア王の妹でもあり、ハワイ王朝最後の女王リリウオカラニの作詞作曲した歌である。その意味をどれだけの人が知っているだろうか、滅び行くハワイ王国へのレクイエムであるということを、愛する楽園がアメリカと言う巨大な国に飲み込まれる悲しみを歌った歌であることを・・・

  ハワイの歴史を簡単に・・・

ハワイが歴史に登場してくるのは、1778年イギリスのキャプテン・ジェームス・クックによってその存在を確認されてからだ。当時は部族間の争いが絶えなかったが、その乱世を治めたのがカメハメハ1世だった。カメハメハは、キャプテン・クック以来、ハワイにもたらされた大砲などの火器を用いて、まずハワイ島を制圧。その後、ハワイ諸島を統一し、ハワイ王朝を樹立する。王は農業と産業の振興に努めて国力を充実させ、巨大な権力を持つ中央集権国家を築くことに全力を注いだ。
また、キャプテンクックの第二次、第三次航海に同行した、イギリス人、ジョージ・バンクーバとカメハメハ交流があった為、カメハメハはイギリスにハワイ王朝の保護を求めたという。イギリスは、ハワイが他国の保護や干渉を受けず、独立国家であり続けることを希望した。そのため王の願いを聞き入れられなかったが、1816年に制定されたハワイ国旗には、イギリスの敬意を表してユニオンジャックがあしらわれている。
1819年にカメハメハ一世がこの世を去り、息子のカメハメハ二世が即位する。
このころからアメリカの捕鯨船が鯨油の中継地としてハワイに来るようになり、マウイ島のラハイナ、オアフ島のホノルルには、年間400〜500隻の捕鯨船が訪れるようになり、アメリカからやってきたキリスト宣教師たちが、布教を許され、布教とともに文字を教えたり生活指導を行った。
カメハメハ二世もハワイの近代化を進める為、「カプ(タブー)」と呼ばれるハワイの土着信仰に基づいた様々な制約を撤廃、偶像や祭祀場を破壊していった。
ハワイ王朝三代目の王、カメハメハ三世は1840年に憲法を発布。ハワイは立憲君主国として、欧米の列強にも承認された。しかし国内ではハワイの近代化に貢献したアメリカのような民主主義社会にしたいと考えたので、必然的に王権は縮小されるようになっていく。
当時のハワイ経済は、一時期しか寄港しない外国船に頼っていたうえ、アメリカの捕鯨船の寄港が激減してしまったので、国内資源による経済への転換を迫られていた。カメハメハ三世は農業に重点を置き、カウアイ島でサトウキビ栽培を始めた。これが成功を治めたため農業が盛んに行われるようになり、ハワイは農産物を輸出できるまでになっていく。ところがここで大きな問題となったのが、労働者不足だった。
キャプテンクックが初めてハワイを訪れた時に約25万人いたとされるハワイ先住民は、外国人が持ち込んだ悪疫に抵抗力がなかったため、またたく間に命を落としていった。乳児死亡率が高かったことも拍車をかけ、1870年に人口わずか5万人となってしまう。労働力を外国に求めることにし、1852年に中国から契約労働者約200人がハワイの土を踏んだ。その後、1868年には、日本からの移住も始まり、一時はハワイ総人口の約半数を占めるほどなで日系移民は増加した。
一方、王朝の弱体化を危ぶんだ四代目の王カメハメハ4世はアメリカ人勢力を政治の舞台から遠ざけ、イギリスの貴族主義的君主制を目指した。カメハメハ5世もこの流れを継続し、反米・親英の立場を取り続けた。
六代目のルナリロ王はアメリカよりの姿勢を見せるが、在位約1年で没し、1874年にカラカウア王が即位した。翌年にはアメリカと通商条約が締結される。これによってハワイ経済が安定するが、アメリカへの依存度はより高まると言う結果になってしまった。閣僚のほとんどが白人となり、王は象徴的存在に過ぎない立場にまで追い込まれてしまう。さらに1885年王権を縮小し、欧米生まれの外国人を優遇すると言う新憲法を無理矢理承諾させられてしまう。
カラカウア王の後を継いだリリウオカラニ女王は王権を取り戻す為に精力的に活動した。しかし1892年に発布しようとした新憲法が事前にアメリカ人勢力に発覚してしまう。これがきっかけになり、ハワイをアメリカに併合する動きがにわかに活発化していった。
1893年アメリカ人勢力が暫定政府を樹立し、1894年にハワイ共和国が誕生。翌年にはついに女王も王権を放棄してしまう。そして1898年には正式にアメリカの領土になった。
以後、約半世紀にわたって、ハワイはアメリカの属領として服すことになる。1941年には、日本軍による真珠湾への奇襲から、から太平洋戦争が勃発。日系移民たちが二つの国の狭間で苦しむ、辛い時代もあった。
ハワイがアメリカ50番目の州として認められたのは1959年である。

















Kamehameha II

The Merrie Monarch

Queen Liliuokalanai
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どっぷりディープなポリネシアからハワイを知るなら、この本
楽園考古学 海のモンゴロイド

つづく
HAWAIIAN CULTURE2

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